You are currently viewing 日本から中国に帰国したウイグル女性を待っていた「悪魔の命令」と「死の罠」

日本から中国に帰国したウイグル女性を待っていた「悪魔の命令」と「死の罠」

Newsweek Japan 2022/7/22

執筆者: アフメット・レテプ(日本ウイグル協会副会長)

<教育者を目指して来日したウイグル人女性が落ちた「死の罠」。流出した新疆公安ファイルが物語る「絶望収容所」の真実>

今年5月24日、中国当局が「職業技能教育訓練センター」と称して国際社会をだましてきた東トルキスタン(編集部注:中国名は新疆ウイグル自治区)の強制収容所に関する大量の内部資料「新疆公安ファイル」が流出。もはや隠し通せない、ウイグル人に対する恐ろしい非人道的犯罪の決定的証拠が明らかになった。

流出したのは、中国共産党幹部らの発言を記録した機密文書や収容者名簿、収容施設の内部を撮影した写真など数万件に及ぶ内部資料だ。公安当局のコンピューターに保存されていたデータがハッキングによって流出し、日米欧の主要メディアが内容を検証した上で一斉に報じた。

元収容者たちのこれまでの証言を裏付けるばかりの資料は、世界中で大きな衝撃を持って受け止められた。特に、収容された親を心配して日本から帰国した後、自身が収容され死亡したウイグル人女性に関する情報が流出資料に含まれていることに、私たち在日ウイグル人は目を疑い、心が折れる思いをしている。

今回流出した機密文書を検証した世界の主要メディアが、当時の新疆ウイグル自治区政府のトップ陳全国(チェン・チュエングオ)が演説の中で「収容者が数歩でも逃げたら射殺せよ」と言い切っていることに注目し、大きく報じた。

ミヒライさんの命を奪った「悪魔の命令」

一方で、私たちが注目したのは、海外からの帰国者の扱いに関する指示である。陳の演説では、海外からの帰国者は片っ端から捕らえ、重大犯罪者の取り扱いに従い手錠や覆面を着け、必要なら足かせもしろ、と明確に指示していた。

流出した収容者名簿は東トルキスタン南部にあるカシュガルの小さな農村地区、コナシェヘル県のもので、2万3000人以上の名前や生年月日、身分証番号、住所、収容理由、収容先などの詳細な情報が並んでいる。名簿をよく確認していくと、この町の出身で、2019年に日本から帰国した後に収容され、翌年死亡したウイグル人女性ミヒライ・エリキンさんの情報が載っていた。

名簿にはミヒライさんの中国名や住所、身分証の番号などがあり、当局の対応指針として「未収押」(収容されていない)、「出境未帰」(国外にいて中国に帰ってきていない)、「防回流」(帰国したら再出国を防ぐ)などと記載されていた。この名簿が作成されたのは17~18年で、当時ミヒライさんは日本に滞在していた。この名簿の存在や、「海外からの帰国者は片っ端から捕らえろ」との命令を知らずに帰国し、命を落としてしまったことになる。

1990年にコナシェヘル県で知識人の家庭に生まれたミヒライさんは、名門の上海交通大学で植物バイオテクノロジーを専攻し、13年に卒業した。東トルキスタンの田舎町で育ちながら、あのような名門大学へ入学できるウイグル人は数えるほどしかない。在学中の夏休みは、毎年カシュガルにある塾で子供たちにウイグル語を教えていた。

その後、14年9月に留学のため来日し、17年まで東京大学大学院に在籍。修士学位を取得した。ミヒライさんはこの間、在日ウイグル人の子供たち向けのウイグル語教室で定期的にウイグル語を教えていた。中国政府によって消されているウイグル語を、日本でどう子供たちに残していくかという課題に悩まされていた親たちから頼りにされ、尊敬されていた。彼女の夢は、将来カシュガルで教育者になることだった。

修士課程の修了後、博士課程への進学を目指していたが、17年に彼女の人生を大きく左右する出来事が起きた。この年以降、東トルキスタン全土に広がった大規模強制収容だ。

大規模収容は一気に広がったが、外国に子供や親族がいる人たちはそれだけで収容対象にされた。とりわけ、私を含む多くの在日ウイグル人の家族が収容され、若い家族が収容所で死亡するケースも複数起きた。

17年に入ってから、ミヒライさんは県政府で公務員だった父親を含む複数の家族が断続的に収容されたことを知ることになる。

ミヒライさんの叔父で海外メディアの取材に積極的に応じているノルウェー在住のウイグル人著名作家アブドゥエリ・アユプ氏によると、ミヒライさんはアブドゥエリ氏の発信をやめさせるよう、母親を介して警察当局からの強い圧力にさらされていた。

心配と圧力で精神的に追い詰められる日々

家族の心配と警察からの圧力で精神的に追い詰められながら、1年間日本語学校に通った後、ミヒライさんは18年4月から奈良先端科学技術大学院大学で研究生として学び始めた。不安や悲しみに耐えながらも必死で前を向こうとしていたが、叔父の発信をやめさせる「任務」を遂行できない彼女に対し、中国の警察当局は母親を介して帰国するよう迫り始めた。

精神的に揺れる日々が続くなか、19年3月に東京都内の証言集会でミヒライさんはこう証言していた。

「お父さんと17年8月以降、一切の連絡が途絶えている。お父さんは私に地元でウイグル語を教える塾をつくってくれました。17年4月と12月にお父さんの妹2人が収容され、18年1月には、私の20歳のいとこが収容された。このほかにも、分かっているだけでも私の教え子10人以上が収容され行方不明となっている。家族と連絡が途絶えて2年になります。私は、家族全員がどこかで生きていると信じています。必ず生きた状態で会えると信じています」

それから3カ月後の19年6月、ミヒライさんはほとんど誰にも相談せず日本から帰国してしまう。後から帰国を知った在日ウイグル人は誰もが心配し、止められなかったことに悔しい思いをした。

アブドゥエリ氏によると帰国の数カ月前から、ミヒライさんが彼に発信をやめるよう求めたことが何度もあった。母親から帰国を求められているとも明かしていた。母親を介して警察当局からの圧力が日に日に強くなっていたという。

帰国当日、飛行機が飛び立つ直前にミヒライさんがアブドゥエリ氏に電話をしていた。その時、こう言い残している。

「叔父さん、警察当局はお母さんを介して、あなたの発信をやめさせるよう私に圧力をかけ続けている。私には、あなたの発信をやめさせることはできない。どうすればいいのか分からない。私が帰るしかいない。さもないとお母さんも収容されるかもしれない。せめてお母さんだけでも無事でいてほしい。お父さんが無事なら生きている姿を、そうでなかったらお墓だけでも見たい……」

父親のことで絶望的な状態に陥った彼女は、人質状態の母親の言うとおりにするしかなかったのだろう。

「私が死んだら、赤いシャクヤクの花を墓に手向けて」。ミヒライさんが日本を飛び立つ直前に友人宛てのショートメッセージに残した最後の言葉だ。危険を感じながらも家族を失いたくない、自分の目で確かめたいという一心だったのだと思う。

伝えられたミヒライさんの死

21年1月、ミヒライさんが死亡したとの情報をつかんだと、アブドゥエリ氏が私たちに知らせてきた。私たちは耳を疑い、嘘であってほしいと自分たちに言い聞かせた。私を含む男性たちは、ミヒライさんと付き合いのある女性やミヒライさんの教え子たちにこの情報を伝える勇気がなかった。次第にこの情報がSNS上で広がり、多くの在日ウイグル人は、なぜ彼女の帰国を阻止できなかったのかと自分自身を責めた。

死亡が伝えられ、アメリカの短波ラジオ放送局ラジオ・フリー・アジア(RFA)がその真相を確かめようと精力的に動いたが容易ではなかった。死亡が伝えられてしばらくたった21年5月、多くの当局者が電話取材を拒否するなか、RFAはようやく警察当局者から情報を得ることに成功した。取材に答えた警察の話によると、ミヒライさんはカシュガルのヤンブラック再教育センターに入っていた。そして20年暮れ、取り調べ中に死亡した。

RFAの報道によると、死亡情報が国際社会に知られてしまったことを理由に、ミヒライさんの家族が警察当局から「国家機密を漏らした」と脅迫を受けた。また警察当局はミヒライさんの死亡に関する報告書を作成したが、そのコピーを見た人の証言によると、ミヒライさんが重い病気を持っていたのに家族がそれを警察に知らせなかったと、死亡を家族のせいにしていたという。

RFAが死亡を確認した後、SNSなどでミヒライさんを追悼し中国に抗議する動きが広がった。すると21年8月、中国政府はミヒライさんに関する英語字幕付きビデオを作成し、国際社会に向けて取り調べ中に死亡したのではなく、病気の治療を拒否したため死亡したと主張した。帰国から2年以上、死亡から1年近くたってから、ミヒライさんの情報を徹底して遮断してきた中国が仕方なく自己弁護に追われた形だ。

そして今年5月、新疆公安ファイルが流出。ミヒライさんが帰国した場合の扱いが事前に決まっていたことが明らかになった。中国政府の収容政策がなければ彼女は普通に暮らしていたはずだ。「悪魔の命令」を知っていれば、日本から帰国することもなかったはずだ。こんなことが許されていいはずがない。

「第2のミヒライさん」を阻止するため、世界の心ある人の力を結集する時である。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/07/post-99175_1.php

コメントを残す