47NEWS 2021/12/7 07:00 (JST)
中国新疆ウイグル自治区でイスラム教徒の再教育を名目に、ウイグル人が収容施設に送られ、その数は100万を超える―。まるで別世界の出来事のように聞こえるかもしれない。だが、日本にも家族を施設に送られたと訴えるウイグル人が数多くいる。昨年、記者の元に在日ウイグル人の知人から「日本に留学していた女性が中国に帰った後、治安当局に拘束され亡くなった」との情報が寄せられた。関係者の証言を頼りに女性の足跡をたどると、父親が収容施設に送られたとの知らせを受け、心配から帰国の途に就く姿があった。女性の消息は今も分からないままだ。(共同通信=上松亮介)
▽夢は教育者
NPO法人「日本ウイグル協会」などによると、女性は同自治区カシュガル出身のミヒライ・エリキンさん(31)。中国上海の名門、上海交通大学を卒業し、2014年9月に来日した。在日ウイグル人たちは「間違いなくエリート。将来はウイグル社会を引っ張る存在になったはず」と口をそろえる。
16年9月、ミヒライさんは東大大学院で農業について修士課程を修了、同大の研究生などを経て、横浜市の日本語学校へ。教育者を夢見ていたミヒライさんは、在日ウイグル人の子どもにウイグル語を教える活動もしており、毎週2時間以上かけ、自宅のあった横浜市から教室がある埼玉県まで通ったという。
▽家族は「人質」
だが、在日ウイグル人の友人らによると、ミヒライさんは17年秋ごろ、公務員の父親が収容施設に送られたことを知り、不安を口にするように。同自治区では海外渡航・在住の経験があるウイグル人や、その家族が収容施設に送られる事例が多数報告されてきた。
記者は、他の在日ウイグル人留学生の中にも「家族を収容施設に送られた」と訴える人を多数確認した。彼らは定期的に中国当局から通信アプリ「微信(ウィーチャット)」で行動確認の連絡を受け、恐怖に耐えながら勉強を続けている。まるで家族を人質に取られたような状態で「自分が海外にいるせいで、家族が拘束されたのではないか」と自責の念に駆られる若者は少なくない。
▽追い打ち
ミヒライさんは不安を覚えながらも勉強を続けていたが「父親が収容施設から別の場所に移送された」との知らせは不安定な精神状態に追い打ちをかけたようだ。収容施設から移送されたウイグル人の多くがその後消息を絶っており、同自治区内外で強制労働に従事させられているなどの指摘がある。
ミヒライさんは医師のカウンセリングを受けるようになり、18年には友人の励ましにも応えられないほど憔悴。体調不良からか日本語学校の授業の出席率は悪く、深夜に寮の部屋からは叫び声が聞こえていたという。周辺の証言からは、彼女が相当に苦しんでいた様子が浮かび上がる。
当時、気分転換のため外出に誘うなどミヒライさんを支えた友人は「彼女はおとなしく、他人に迷惑をかけまいと自分で抱え込む性格。周りの人間は助けることができなかった」と悔やむ。この友人も「家族数人を収容施設に送られた」と打ち明け、精神的苦痛にさいなまれていた。
父親を心配し、とうとう帰国を決意したミヒライさんに対し、周りはウイグル人の人権保護を訴える活動をしている親族がいることを懸念し、「当局は普通のウイグル人として扱ってくれない。絶対に帰らないで」と制止していた。しかし19年6月、親友らに「お父さんを放っておけない。何があっても生まれ育った故郷へ戻りたい」と告げ、帰国した。
▽死の連絡
周囲が懸念した親族というのは、ノルウェーで亡命生活を送る叔父でウイグル人著名作家のアブドゥエリ・アユプさん(48)。海外メディアの取材に積極的に応じるなどウイグル弾圧を世界に向け訴えており、中国政府にとっては「危険な存在」。そのアユプさんの元に、現地の協力者から昨年12月に「彼女は逝ってしまった」とのメッセージが届き、めいの死を悟ったという。
米政府系のラジオ自由アジア(RFA)も5月、現地への取材を通じ、ミヒライさんの死亡を確認したと報道。根拠として(1)当局が家族に「ミヒライさんが病気を患っていた」と証言するよう強要し、死亡診断書を作成しようとした(2)当局関係者が「ミヒライさんの死亡を同僚から聞いた」という証言を得た―などを挙げた。
アユプさんは13年~14年、中国政府による弾圧で継承が危ぶまれていたウイグル語を教えるため、故郷カシュガルで児童向け施設を開設したことで投獄された。激しい拷問を受け、中国当局の恐ろしさはよく分かっている。帰国しようとするミヒライさんには考え直すよう繰り返し説得したものの「父を救いたい」と意志が固かったと振り返った。
▽叔父の後悔
同自治区の親族に危害が及ぶ可能性があることから、ミヒライさんは再三、アユプさんに活動をやめるよう求めていたという。
アユプさんは自身の存在がミヒライさんら親族の拘束につながったとみて、涙をこらえながら「自分のやってきたことを後悔している。だが、家族の中でウイグルの惨状を証言できるのは自分だけだ。ミヒライが日本に確かにいたこと、そしてこの悲しみを彼女が暮らした国の人にも知ってほしい」と話した。
ミヒライさんと家族ぐるみで付き合いがあり、当時をよく知る日本ウイグル協会のアフメット・レテプ副会長(44)は「悲しみに耐えながらも、必死で前を向こうとしていた」と推し量る。一方で「すぐそばにいたのに、彼女の心の内を知ることができなかった。中国政府の収容政策がなければ、いま彼女は普通に暮らしていたはず。その普通が壊されてしまった」と憤った。
ミヒライさんは帰国前の19年3月、都内で開かれた同協会主催の抗議集会に出席、こう訴えている。「家族と一切連絡が取れなくなり、2年。皆が生きていることを信じています。いつか会えることを信じています」。帰国の途に就いた彼女は家族とつかの間の平穏を送ることができたのだろうか。
▽SNSで追悼
ミヒライさんが中国への帰国後に死亡したとの報道を受け、会員制交流サイト(SNS)上では欧米諸国に暮らすウイグル人を中心に追悼の動きが出はじめた。
「私が死んだら、赤いシャクヤクの花を墓に手向けて」。ミヒライさんが友人宛てのメッセージに残した最後の言葉だ。ウイグル人らはこの言葉を印刷したプラカードと赤い花束を手にした自身の写真を投稿。フェイスブックでは、追悼の呼びかけに応じたフランスや米国などの他の外国人によるものも多数あった。
呼び掛け人のアユプさんは「私たちの問いは、いたってシンプルだ。どうしてミヒライは死ななければならなかったのか。なぜ拘束されなければならなかったのか。数百万のウイグル人の消息はどうなっているのか。もう中国政府は収容施設の扉を開かなければならない」と話した。
▽取材を終えて
ミヒライさんに関する情報を聞いた当初、記事執筆のための「ファクト」はどれだけあるのか、疑問があった。だが、アユプさんをはじめ関係者らの証言を聞いていくと、他の多くのウイグル人留学生と同じように、不安と恐怖に心をむしばまれていくミヒライさんの姿が浮かび上がった。
ミヒライさんの死を確定的に報じたRFAのウイグル人記者たちも故郷に残した家族の安否を案じながら、中国当局者への取材など精力的な報道を日々続ける。家族が消息不明となっている米国在住の女性記者は「いつか皆で再会するため、どんなことでもやる」と語気を強めた。
ウイグル人への「ジェノサイド(民族大量虐殺)」が起きているとして批判を強める欧米諸国やメディアに対し、中国政府は「真っ赤なうそ」「証拠はない」と一貫して否定してきた。だが、強大な監視体制で人々の口をふさぎ、現地での取材も徹底的に妨害する彼らと、危険を覚悟し家族や友人のため証言するウイグル人たちでは、どちらの言葉がファクト足り得るだろうか。中国政府の主張に疑念は深まるばかりだ。